【読書】人類を応援したい②『サピエンス全史』ユヴァル・ノア・ハラリ

【読書】人類を応援したい②『サピエンス全史』ユヴァル・ノア・ハラリ

この本の上巻のハイライトでもあるが、人類が繁栄した理由のひとつに「認知革命」があるという。

人類が「虚構」を理解できるようになり、物語を共有できるようになったことが、集団を大きく発展させる手助けになったらしい。

めちゃくちゃ噛み砕いて、ひと言で説明すると、人類はある時点を過ぎて「賢くなった」らしい。

「虚構」と「抽象概念」


著書では虚構と名付けられているけれど、純粋に「抽象概念」と呼んだほうが正確なのではないかと個人的には思った。

あくまで自分の勘ぐりだけれど、「本」という文字媒体は人間の脳の抽象的な理解を前提に書かれ読まれるものであるため、読者が『サピエンス全史』を読みながら抽象概念について内省すると混乱してしまう可能性もある。

下手をするとページを読む手を止めてしまうかもしれない。

そこであえて「虚構」という演劇的な語が選ばれたように思う。

物理的に存在しないもの


現代社会も、抽象概念をもとに成り立っている。

「国家」も「社会」も「価値」も抽象的な概念であり、物理的に存在するものではない。

(法定通貨の価値なんて、「国家」という抽象的な概念に裏付けられた、抽象的な価値ということになる)

さらに言うと、抽象的な概念は、個々人の頭の中にしかない。

脳みそ同士がインターネットやBluetoothを介して同期的にやり取りしているわけでもなく、パッケージ管理システムもないため、個人個人の抱える概念も正確には別物である。

別物なので、互いの抽象概念をむやみに参照し合うと、話に齟齬が生じて「おれとお前の考える〇〇が違う!」という論争が発生する。

論争をする前に、まずは互いの頭の中に、同じ命名の抽象概念があることに驚き、認め合うほうが平和的かもしれない。

なんといっても、人は言語を通じて、モヤモヤと理解した概念を丸ごと飲み込み、「あるもの」としているに過ぎない。

性格の悪い表現をするなら、人類は「ありもしないものに振り回されている」とも言える。

凄いことだけれど、行き過ぎると簡単に混乱を招く


抽象概念を理解しない原始人のような視点で世界を見渡すと、改めてそのあり様に驚かされる。

よくそんな仕組みで成り立っているものだ、と心の底から感心する。

便宜的な方策が、あまりにうまく行き過ぎているようにも見える。

例えば自分の場合、それまで、人混みの映像や上空から撮影した都市の映像を見て「社会の姿」と認識してきたけれど、あくまでそれらは、人混みであり、街の風景でしかない。

「社会」という抽象的な言葉は、パッケージ能力が強い。「〇〇社会」と名付けてしまえば(例えば情報化社会、格差社会……)いくらでも社会を簡単に作り上げることができてしまう。

先に名付けてから、それに見合う共通事項を、恣意的に抽出してくることもできてしまう。

デートで奢るべき論争


他人も抽象化することができてしまう。

よくあるのが「デートで奢るべきか」のような論争。

実際の正しい結論は、「人それぞれ、または、時と場合による」という無難でつまらないものになるだろう。

個人的に振り返ってみても、自分はあまり恋人や友人を概念的に捉えたことがないように思う。

もしかすると、世の中の多くの人は「概念的な恋人」と付き合っているのだろうか……? どうかお幸せに。

社会の厳しさ、客観的な、という言葉


個人的な話だが、自分は小学生の頃に「社会の厳しさ」「客観的に考える」という説明を受けて、腑に落ちなかった記憶がある。

「社会」も「厳しさ」も抽象的なものでしかない。「社会の厳しさ」は、抽象概念に抽象的な評価を下している。

子供には、具体的に「約束はきちんと守ろう」「色んなことを相談しよう」と説明したほうがいいかもしれない。

「客観的に考えろ」と言われて混乱した覚えもある。

生まれてこのかた、自分の脳みその外側に出て、主観を超越して物事を考えたことがなかった。

当時の自分は、言葉の意味は何となく分かるけれど、実際に何を示されているのかが、理解できなかった。

しかし、それである意味正しかった。

「客観的」とは「言葉の意味しかない」ものなのだから。

「一概に言えない」に弱い


世の中は具体的なもので溢れているので、一概に言えないものばかりである。

ただ、抽象化に慣れてしまうと、一概に言いたくなる。

むしろ一概に捉えて、安心したくなる。

もしかすると、既に脳みそのメモリ容量が、限界を迎えているのかもしれない。

不幸のでき方


抽象概念は、ものすごく便利だけれど、それを理由に、気分が落ち込んだり、不満がつのったり、果ては戦争を引き起こして人を殺めてしまったりする。

例えばニュースなんかで凶悪犯罪の動機を「社会への恨み」なんて言われても、改めて考えると、何を説明されたのかよく分からなかったりする。

「社会の生きづらさ」なんて言われると、まるで抽象概念に肌で受け取れる感触がそなわっているような気もしてくる。

見渡す世界を一概に処理して、自明的なものとして安心したくなるのも、脳みそのクセなのかもしれない。

そうして実際と認識の間に齟齬が生じて、不幸を感じるように思われる。

賢さが裏目に出ている


抽象的な概念を理解できるようになったのは、賢くなったから。

しかし、その概念に囚われすぎているとなると、賢さが裏目に出てしまっている。

そう。

現代人は特に、賢さが裏目に出てしまっている場面が多いように見受けられる。

たまには五感に立ち返る


せっかく賢くなって文明を発展させてきたのに、その機能が裏目に出ては元も子もない。

たまには、五感に立ち返って、身の回りの世界を見つめ直したほうがいいのかもしれない。

原始人になったつもりで、世界を眺めてみよう。

ウホウホ。